Fiction Factory

ゲーム実況風プレイ日記&考察中心 常にネタバレ注意
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時の残滓 第32話
 エニアはゆっくりとこちらを向いた。はっきりとした表情は見えなくとも、少し
息が荒くなっていることと、半開きの唇は見てとれる。そして咄嗟に後ろ手に何か
を隠したのがわかった。

 「……イリー?それにア……、どうして」エニアは、私の名前を呼ぶのを躊躇っ
た。おそらく、あの名前を私が気に入っていないように思っているからだろう。
「あは!エニア、あんた自分のつけた名前忘れてるの?だったらナンバーで呼ぶ?
それとも新しく正式についた名前で呼んであげればいいじゃない」イリーはエニア
の肩に触れ、彼女の後ろに回った。

 「へえ、お楽しみの最中だったわけね。で、あんたの質問の答えだけど。私は
あんたを探しに来たの。個人的にね」そしてエニアの背後にある何かに右手を伸
ばす。「触らないで!」イリーのいる方へ顔を向ける。イリーは右手を止めて代
わりにエニアのおとがいに指をかけた。「ふうん?あんた、いつからそんなこと
言える立場になったの?まあ、感謝はしてるけど。言葉に気をつけなさい」微か
に語気を強める。何も聞かされずにここまで来た私には状況が見えないが。

 「エニア、ここで何をしているんだ」できるだけ刺激しないようには気をつけ
ていたが、それでも少しは声に出ていたと思う。嫌な予感は、当たるものだ。
「あたしは……」言いよどむ。「アイリス、見えてないの?ほら、もっとこっち
来てみなさい。見たことがないなんて、言わせないからね」と、イリーは私の手
首を思い切り掴んで、エニアの影にある何かのそばへ私を引きずった。

 それは、壁に寄り添うように揺れていた。体から伸びる四肢は、上下両方とも
ぴったりとくっついている。腕はウインチで引き上げられ、足はつま先がつくか
どうかだ。暗がりに慣れた目が、傷だらけの体を捉えた。幸い、出血はしていな
いが、短い蛇のような紋様がそこかしこに広がっている。

 見間違うものか。私の命の恩人でもあり、白い猫を連れ歩いたあの少女を。私
が、船に乗せられてからずっと、再会を願っていたその人を。

 「ラギ……」意識を失い、緩やかに揺れる細い体は、ラギ以外の誰でもなかっ
た。どうしてここにラギがいるのか、エニアが彼女に何をしていたのか。その疑
問を、口に出したくはなかった。ただ見ているだけしか、私にはできない。エニ
アに問い質す権利はあったかもしれない。それでも、何も考えずに信じていたか
った。だから、こう聞いた。

 「エニア、信じてていいんだな?」頷いてほしかった。不可抗力だと、言って
くれることを期待して。けれど、「ごめんなさい」エニアはしばしの逡巡ののち、
私にそう告げた。何度も、何度も。床に泣き崩れたエニアを、私は背中からそっ
と抱きしめた。私にも、何が何だかわからなかったから。許す、許さないの問題
ではない。どうしていいのかどう考えたらいいのか、頭の中の整理がつかない。
エニアの肩に額を乗せて、私までどういうわけか涙が溢れてきた。

 「感動の再会、のとこ悪いんだけど」イリーがため息交じりに切りだす。「ラ
ギちゃんは吐いてくれたの?」エニアは首を横に振った。「あんた、本当こうい
うの向いてないんだね。気絶まで追いこんじゃったら吐かせられないじゃない。
せっかく本来の目的におまけまでついてきたのにもったいないの。ま、専門じゃ
ないから仕方ないけど、これじゃあ私の昇進もパーか」何やらよくわからないこ
とをぼやくと、拘束具を外してラギを降ろした。

 冷たい黒い石の上に寝かされたラギは、静かに胸を上下させ、生きている証を
見せている。あれだけの量の傷を負っているのにもかかわらず、着衣に乱れはな
い。どうやら私とは違う方法の尋問を受けていたようだ。エニアが何のためにこ
んなことをしているのかは見当もつかない。事実として気を失ったラギがいるだ
けだ。

 「イリー」ようやく落ち着いたエニアが、イリーを呼んだ。「知らない。私は
あんたのことをバラさないって条件で、ラギの居場所を吐かせようかと思ってた
だけだし。あんたがラギを一番欲しがってるのは、私がよく知ってんだから」
腕を組んで壁に寄りかかり、舌打ちする。

「ラギに尋問を掛けてアレを手に入れれば、確かにあなたは昇進できたはず。も
ちろん、そんなこと想定済みだった」エニアはすっと立ち上がった。だが、その
顔は私たちの方を向いていない。そして続ける。「でもね、ゼプトを裏切ったと
わかれば、連中も放ってはおかない。あなたの行動は独断専行だから。もちろん、
あたしも。どういう意味か、わかるでしょ?」エニアの言葉は静かで、かつ厳し
さを持っていた。

「わかってる。ほんと、ラギがあんたの手に渡ったのは私の失態ね。最悪」
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時の残滓 第31話
 服を乾かした時に気付いたのだが、ポンチョに空調機能が付いていたことをすっ
かり忘れていた。イリーがそのことを知っていたのかどうかはわからない。それ
を脱いだら、思ったよりは寒く感じなかった。どうやら暑い砂漠の中で涼をとる
ために温度調節したまま着ていたのが寒さの直接的な原因だったようだ。

 そうこうしているうちに服も乾き、歩いているうちに水たまりは浅くなり、つ
いには見えなくなった。相変わらず明りなくして前進はできないほど真っ暗だ。
それでも景色の違いがはっきりとわかる。

 岩だらけの景色には違いない。違うのは、あのとき見た景色に似ていることだ。
あのとき、私がエニアの手から離れて、ラギに出会うきっかけになった――あの
場所に。

 あれだけ遠回りして、東棟の地下牢に私たちはいた。

 よく似ているだけ?並んだ牢獄、そしてナンバープレート。恐ろしいほど黒々
としたあの床と壁。ナンバープレートの中に、ナンバー0を見つけた。すべて、見
覚えがあった。やはり、間違いない。

 「ねえ、覚えてる?」イリーが振り向いた私の両肩に手をかける。ポンチョ越
しだというのに彼女の手に熱がこもっているのを感じた。「あなた、ここからエ
ニアに落とされたってこと」落とされた?あれは完全に不可抗力だ。エニアに非
はない。思わず顔にしわを寄せる。

 「そんな怖い顔しなくたっていいのに。仮にエニアがわざとやったんじゃなく
てもあの子の報告はそういうことになってるってだけ。信じるかどうかは、あな
たにまかせるけど」その声にはかすかに嘲笑が混じる。私は私で、疑問が浮かぶ
ばかりで、答えは出ない。

 「いずれにせよ、あそこであなたたちが捕まったってことは落ちたことには違
いはない。そう、ここはあの場所。足元を見てみたら?」にやにやと嫌な笑顔を
浮かべて手を外した。

 足元は、すっかり消えている。そして、気づいた。「あの」その暗い床を見つ
めたまま、声をかける。「なあに?」面白そうに答えるイリー。「ここのナンバ
ー0には、誰かいたんですか」イリーは答えない。しばらくの沈黙。顔を上げる
と、無表情のイリーがそこに棒立ちになっていた。

 「何か、知ってるんですね」自分の耳を疑うほど、冷めた口調になっていた。
「知らない方が、いいことだってある。これは、そのひとつ」ほんの少しだが、
イリーに動揺の色が見て取れる。

 「私にかかわることですか。それとも、エニア?」その問いに、イリーは首を
横に振るにとどめた。答えられないということか。「なぜ、私をここに連れてき
たんですか」質問を変えた。どうせナンバー0については、もう答えるつもりは
ないのだろうから。

 イリーがあたりを見回して答える。「ここに、いると思ったから。まだいな
いようだけど」私たち2人以外誰もいないことを確認して、イリーは小さくため
息をついた。そして、再び歩き出す。

 進んでも進んでも、誰も見当たらない。静かだ。とても静かだった。異様な
ほどに。吐息さえも、耳に届かない。まるで人がいない世界に飛び込んでしま
ったかのよう。

 「ああら、やっぱりいるんじゃない」無音の静寂を打ち破ったのは、イリー
だった。私たちが来た反対側の廊下の陰に、人影がうごめく。ペンライトが、
足元を照らし出す。

 「お久しぶりね、エニア?」
時の残滓 第30話
 洞穴の奥に進むにつれて、濡れた苔が足を捉える。人が通れる隙間がかろうじてあるだけで、特に研究対象であるようにも見えない。体を支える手すりやロープも見当たらず、無言のうちに進んでいく。

 イリーは分岐点で指示をするだけで淡々と後ろについてきていた。滑りやすい苔に悪戦苦闘しながらじりじりと進んでいくのは、精神力と体力を同時にすり減らしてくれる。

 足元に冷たいものを感じた。ペンライトの光が反射して、ゆらゆらと揺れている。水が溜まっていた。青い水は澄んでいて、そこが透けて見えるほどだ。こんな状況でなければ溜息が出るような景色だっただろう。しかし、その水たまりもやがて腰まで浸かるほどの深さに来ると、さすがにそんなことは言っていられない。

 「こんなところに何が?」遅々とした歩みと、冷たい水に体の半分を晒していることでイライラしながら愚痴る。「進めばわかるって。私だって好きでこんな……」イリーは言葉に詰まって「もういいでしょ。ここまで来て引き返せるなら勝手にしたらいいじゃない」そう返してきた。よくよく考えてみたらわかりそうなものだが、イリーの方が袖のないワンピース1枚などという寒そうな格好をしている割に全く震えが見えない。よほど体温が高いのだろうか。

 時計を見ると、もうかれこれ数時間は経っていた。濡れた服の重みと冷たさが、私の体力を奪っていく。ようやく水濡れのエリアを通過すると、ほんの少し光が差し込んでいるのが見えてくるようになっていた。

 「休憩しようか」イリーは水から上がり、近くの岩に座り込む。「そんな時間あるんですか」私としては、さっさとこんな暗くて寒い場所から抜け出したい一心だった。「私が疲れたの!」なんだその言い草は。「時間なら大丈夫。別に約束なんてしてないし、水から抜けたんだから服くらい乾かせてくれたっていいじゃない」また濡れる
心配はないのだろうか。だが、服を乾かしたいのは私も同じだ。「そうですね」しぶしぶ休憩に入ることにした。

 「約束してないってどういうことでしょう?」ふと、さきほど休憩時にひっかかったことについて質問してみる。「知りたいならついてきたらいいよ」望む答えが出ないことくらい予想はしていたが、こうもあっさりはねつけられるといい気分はしない。私にラギの話を振ったからには、ラギについて何かしら知っていることくらいは私にでもわかる。イリー相手にその話を聞き出す能力が、私にあるかどうかは別にして。それにしても寒い。洞窟の中が寒いのもあるが、水で濡れて火もなければなおさらだ。震えが止まらない。

 「ね、寒くない?」イリーが面白がって聞いてきた。「暖の取れる状況じゃないでしょう?……何を考えているんですか」イリーは表情を変えない。「ふふふ……温めてあげようか?」一瞬、びくりと体が反応する。「言ってることわかる?私も楽しめて、あなたも暖かくなるおまじないをね、してあげるっていうこと」そう言っておも
むろにワンピースの裾に手を突っ込んだ。反射的に私は攻撃態勢になる。そんなことにはおかまいなしに、イリーは太腿から何か光るものを外して手に取っていた。

 「ナイフ?」疑問が口に出る。「そう、ナイフ。何?期待してたことと違ったの?」イリーはナイフの刃先を軽く指でなぞりながら私に問いかける。答えないでいると、彼女は肯定の意味だと解釈したらしい。「それは残念。私はね、あなたの悲鳴が大好きなの。それだけ」勝手にそう思っていたらいい。実際には口にしなかったが。おそらく否定を口にしたところで、嘘だとばれるのが関の山だ。

 そして、私に向けてナイフを突き付ける。私は私で、持っていたナイフを抜き身で突き出した。「ちょっと!危ないじゃない。そんなに怒らなくってもいいのに」ふてくされてナイフを持たない方の手で、私の手ごと突き付けられたナイフを掴む。

 「それに、これも契約のうちでしょ?従わないなら、私にも考えがあるんだから」経験上、諜報部の連中には逆らえないことくらい、自分でもわかっている。たとえこの言葉が彼女のハッタリだったとしても、それを確認するすべがない以上余計なことはしないことだ。でも。「それが何だって言うんですか。急にナイフ向けられて、はいそうですか、で済むはずがないでしょう?」そう言ってやった。

 少なくとも、イリーがエニアやゼプトほどの切れ者には思えなかったから。それでも、イリーは何もなかったかのようにナイフをむしり取るように私の手から抜き去る。「いい?言っておくけど私がいなければあなたはここから戻ることもできないんだからね。仮に私に何かあれば、確実にあなたは殺される。契約は契約だからね!口約束だと思っているなら証拠だってちゃんと持ってるんだから。破るようなことがあったら是が非でも私はあなたを殺しに行くよ?死ぬより怖い地獄を味わいたいの?」

 眉を吊り上げ、冷たい視線を私に向ける。「舐めて貰っちゃ困るよ?私が簡単に諜報部に入れたと思っているようだけど、見くびるのもいいかげんにしてよ。情報収集が命懸けなことくらい、どんな下っ端でも心得ているものなんだから」彼女の言葉が重く突き刺さる。わかっているのに。現にエニアは、今もまだ命の危機にさらされている。軍を裏切り、私を助けようとしたのだから。仮にまだ、イリーやゼプトが知らなくても、判明したら命の保証などないに決まっている。

 「わかったでしょ?大人しく言うことを聞きなさい」イリーが私の手からナイフを引き剥がして床に放る。彼女の手に握られていたナイフは、見る間に真赤に染まり、音を立てていた。それを無防備な私の首にあてがう。

 一瞬だった。肉の焼ける音が、洞穴の音に交る。熱さで短い悲鳴が漏れた。「何を……」触ってみると、水ぶくれで腫れているのがわかった。「こっからもう1時間くらいかかるから休憩くらいさせてよ。ほら、治してあげるから、おいで」

 こんなことになりながら、仕方なく洞穴の中で小休止を取ることになった。治療方法についてはあえて言う必要もない。ただ、イリーは首尾よくやけどを治して、嬉々として私の体にうっすら残した傷跡を眺めていた。
時の残滓 第29話
 甲高い風の音が響く。穴のあいた岩の隙間から抜ける音だ。今回は夢も見ることなく
深い眠りについていた。次第に視界が晴れて、意識がはっきりしてくる。目に入ったの
は例の建物ではなかった。

 「起きたの?」背後からイリーが優しく声をかけてきた。「はい……ここは?」ごつ
ごつした固い岩の上に、申し訳程度に広げた毛布が私に被さっている。手首にかかって
いた重みも消えていた。手足は自由に動かせる。ただし、それ以上の状況はわからない。

 「説明すると面倒なことになるの、今は聞かない方が身のためね。ただ、あなたは私
の提案に乗ったんだから、ちゃんと利用させてもらう。あのとき、もし断っていたとし
ても私はあなたをただゼプトに返していただけだけど、きっとあなたは後悔してたはず」
実際、その通りだったかもしれない。とはいえ、ゼプトに私の身が渡ったところでどう
なっていたかなんて、その時の私に予想ができてただろうか。

 「わかりません。ゼプトは話そうとしませんでしたので」彼に聞いてはいないが、エ
ニアと同じく諜報部だ。そうそう簡単に口を割る真似はしないだろう。「そうでしょう
ね」間を置かずに頷き、私のそばでかがむ。

 「彼はよくわからない」肩をすくませてみせる。ゼプトの部下だと思っていたが、彼
女がよくわからないと評する理由など知るすべもない。「大丈夫なんですか」とにかく
状況を知りたかったのもあって、そんな質問をした。彼女の先ほどの発言からしてもど
こかしらから監視があっておかしくないと思ったからだ。一瞬、イリーはきょとんとし
ていたが、すぐに表情を戻す。

 「ああ、大丈夫。盗聴器も盗撮カメラもここにはないから。ここは……秘密の場所、
ってところかなぁ。はっきり言って、それでも長時間いられる場所じゃないけど」どう
やって女一人で私をここまで連れてきたのかは知らないが、それなりに長時間経過して
いるようだ。

 周りは薄暗く、時間はよくわからない。明りも乏しい岩の中にいるらしいとしか、見
当もつかない状態だ「ここがどこか、教えられないんですか」姿勢を正してイリーに向
き合う。穏やかな表情に髪の毛が纏わりついていた。「教えたりしたら、私が消される
から。あなた……本当に知らないのねぇ」彼女の言い分が正しいとしたら、ここは軍に
も知られていないような場所なのか。そんな場所がすぐそばにあるとは考えにくいが。

 「これから、どうするんですか」肌寒さに身震いがする。「ここを下りる」イリーが
指差したのは、岩場の奥だ。ここよりさらに暗い。「私も知りたいの。あなたが先導し
なさい。どうせ一本道だから」私を立ち上がらせると、背中を押した。「あと、これも」
回収されてしまっていた服やら身の回り品だ。ナイフまで渡された。それも、ゼプトに回
収されていたものだ。

 「どうやってこれを?」ゼプトとイリーは、おそらく同部隊に所属しているはずだ。
ゼプトがイリーをどう評価しているか知らないが、これをイリーに最初から持たせて
いたとは考えにくい。「ん?ちょっとくすねただけ」軽く流した。「ほら、先に行っ
てよ。私は戦闘苦手だし、あなた戦闘部隊でしょ」

 それもそうだ。服を掴みあげると、中から身につけていた時計が落ちた。捕まって、
外に出てから1日は経っていない。だが、もう昼に近い時間ではあった。袖広のTシャツ
にカーゴパンツ、ブーツを身につけ、ナイフを腰に引っかける。それはいまだに手に馴
染んでないものだが他に持っていないのだからこの際仕方がない。この上からポンチョ
を被る。この格好をすると、嫌でもラギを思い出さずにはいられない。

 小銃の方は弾切れだったそうだ。そんなに使った覚えはないが、彼女が私を警戒し
ていないなんて、誰が断言できる?
時の残滓 第28話
 痛みが、全身を支配していく。ピリッと走る電気信号。イリーは、痛みと同じくらい私を支配している。イリーが私の腹からナイフを抜き去る。傷口を離れたナイフにはほとんど血が残っていない。そして――「あつっ」肉の焼ける音がした。熱いナイフの側面が傷口に当たっている。

 「あはは!いい顔するねぇ。私専属のペットになればいいのになぁ」喜びと恍惚の表情を浮かべて、私の傷口に触れる。やけどの跡が綺麗に消えた。「ど、どうして……わざわざ傷を消す必要が?」傷は消えたものの痛みは残っている。「そりゃ、まあ」考え込むそぶりをする。そして、私に背を向けて「……企業秘密ってことで」面白そうに答えた。

 「質問を変えようか?」振り返って再び冷たい笑みを私に向ける。「あの子、あなたとどういう関係なの?私に教えてくれない?最初の質問は、なかったことにしてあげるから」また、ラギか。「わかりません」ある意味真実だ。それについては私も知りたい。私はエニアの無事を知りかっただけで、ラギには何の利益もないはず。「ふーん。それが本当なら、あなたを取っておく理由はないってことでいいわけ?」これには黙って頷いた。

 そして、焼けたナイフで私の首筋からヘソにかけてなぞる。やけどの跡は一輪の薔薇を私の体に刻み込んでいく。苦痛で時折上げる私の小さな悲鳴。それを面白そうに眺めるイリーの笑い声。焼けた金属のにおいが、部屋に充満している。

 ここで今できることは考えることだけだった。手も足も出ないし、何より助けが来る見込みも今はない。私に手を出してくるということはラギに危害を加えることができない状態だということだろう。「お味はいかが?」彼女の足元では鉄板が白煙を上げていた。心なしか、部屋の中が暑い。少しずつだが白い寝間着の背中からお尻にかかるあたりに湿り気を感じるようになってきた。

 「そんなにあの子のことが大事?それとも、本当に知らないの?」しばらく私の体で遊んでいた彼女が、耳元でささやく。「知りませんね」私がイリーに対して、恐れの感情と何か別のものを感じているということを、彼女は悟っているように思えた。私は、知らなかった。それだけは、そのとき唯一の汚点だったと言える。

 「本当に知らないの?」覗きこんで眉をひそめる。「はい」私が答えると、無言のうちに彼女は短くうなづいて納得していた。「ね、取引しよっか?」唐突だった。「ラギが私たちにとって、どういう人間なのか。知りたいんでしょう?」図星だ。顔に出さない訓練はしているものの、諜報員ではない私にその手の完璧を求めないでもらいたい。

 「ほら、やっぱりね。交換条件は、あなたの体。私にだって私の意志があるの。いつまでもおこぼれ頂戴役じゃつまらないからね」交換条件については、察しがついていた。「そんなことをしたら、あなたもただでは済まないはずですが。何故そこまで?」大体予想はできるだろうが、一応確認のためだ。

 「ふふん。あなたが気にするこっちゃないの。そうねえ、あえて言うなら私のため。それ以上でも以下でもないわけ。どうするの?断るなら断るであなたの体は私のものだけど。ただし、私に乗るのなら話は別」この部屋に何の集音装置も録画装置もないなど誰が思う?もちろん、それを想定しての発言のはずだ。それにもかかわらず、イリーは裏切りの意志を見せている。これも彼女の演技だというのか。それとも、ここの映像を見ている相手への挑戦か。

 「乗りましょう」これは賭けだ。うまくいけば、ラギのことを知ることができる。エニアのことも。失敗したら、それまでだ。今思えば、興味本位で軽率だったかもしれない。それでも、この選択が分岐点だったことは確かだ。

 イリーは静かに笑って、私の唇を塞いだ。天井が、壁が、世界が、全部が縦横に回る。いろいろな衝撃が私を揺する。体が沸騰していく。視界が白に覆われていく。両腕の痛みも、やけどの痛みも、穏やかな熱に癒される。この部屋の最後の記憶は、彼女の真紅のドレスと白い肌色だけだった。イリーがそうした理由は、私にもわからない。最初で最後の、感触だった。苦いような、甘いようなそれは、確実に私を縛っている。

 そして私の意識はふつりと切れて、そのまま落ちた。
時の残滓 第27話
 階段を下りた先で、幅の狭い通路に出た。白いライトが金属の無機質な壁に反射し、
私たちを光の中へ誘っているように見える。長い通路のわかれ道を左に折れた。奥
には銀色の扉がある。イリーは、すっと白い右腕を扉にかざした。音も立てずに扉
が開く。

 しばし唖然としていた私を、イリーは後ろから回り込んで部屋に押し倒す。寝間着
が擦れて、びりっと音がした。起き上がって彼女をにらみつける。まるで囚人のよ
うな扱いだ。いや、事実私は罪を犯した。そもそもあれがきっかけで私は下へ落ち
て、そして今、ここにいる。イリーやゼプトが私とどういう関係があるのかは知ら
ないが。

 白い肌に真紅のワンピースといういでたちは、まるで彼女の性格を写しているよう
に思えた。そして違和感に気づいた。丈の長いワンピースで隠れているが、彼女は
裸足だ。理由など、この時はどうでもよかった。

 イリーは怖ろしい笑みを浮かべて「さあ、お楽しみの時間ね」睨みつけている私の
目と鼻の先でささやくように言った。手錠を後ろ手につけたまま、革手錠で両手首
を締め上げられる。摩擦で痛い。そして金属製の手錠の鎖を引いて私を壁際に押し
付けた。

 短い電子音が背後で鳴るのが聞こえた。その後で、金属製の手錠の方を外されるの
が感覚でわかる。私の両腕は、そこからどうにも動かなくなった。「これは?」何
をする気か知らないが、そこまで拘束されるいわれはない。私が暴れた、というの
であれば別として。

 「ん?そりゃあもちろん、あなたのために決まってるじゃない」素っ頓狂な答えを
返してきた。「ここまで拘束する必要がありますか?私は逃げも隠れもしませんが」
せいぜい虚勢を張ってやった。どこまで本気か、自分でもよくわからなかったけれ
ども。

 「わかってないのねぇ……」身長は私の方が上なのに、彼女は私を上から見ている。
体を動かそうにも、この体勢では難しい。壁から少しでも離れようとしたなら、両
腕がもげてしまいそうだ。

 「暴れられないでしょう?痛いでしょう?もっとあなたの体が柔らかければいいけ
ど、難しいよねぇ」後ろ手に拘束されているだけでも十分動きづらいのに、さらに
イリーは私の両足首を、床にセットされていた革製の足枷に固定していった。これ
では本当に手も足も出ない。

 「ふふふ・・・・・・おいしそう」何を言っているんだこの女は。「ねえ、どんな鳴き声
をしてるの?どんな苦痛の顔を、見せてくれるかしら?楽しみでしょうがないの!!」
彼女が私に顔を近づける。興奮して息が上がっているのがわかる。狂ってる!

 両腕を私の首に絡めてきた。「大丈夫、殺しはしない。命令だから」声色はやさし
いのに、怖気が走る。そして、すっと私から腕を放したかと思うと、部屋の隅にあ
る棚の中を探る。光る何かを手に持って、私に近づいてくる。ナイフだろうか。親
指ほどの長さの刃がついているのが見えた。

 「怖いの?」冷たい笑顔が私を凍らせる。できるだけ目をそらすことにした。「何
をしようって言うんです?」代わりにそう答えた。「その前にお仕事?じゃあねえ、
なんであなたは、あんな子と一緒にいたの?」ラギ?ラギがこの女とどんな関係が
あるんだ。「彼女とあなたに何の関係があるというんですか」エニアのことは心配
だったがラギを巻き込むわけにはいかない。「どこ見て言ってるの、アイリス?」
怒気を含んだ口調に、顔を見ていないのにぞくぞくする。

 「じゃあ、言うこと聞くまで私、付き合っちゃうから」お腹に、思い切りナイフが
突き立てられた。痛みでうめく私を、彼女は面白そうに眺めている。「この服、邪
魔ね」手錠を外して脱がせるのも面倒だったのか、イリーは私の寝間着をボタンご
と引きちぎった。

 空調が聞いているとはいえ、風通しが良すぎて違和感だらけだ。先ほど刺された個
所から、生温かい赤いものが私の太腿まで流れてきていた。
時の残滓 第26話
 重い扉が開くと、立っていたのはあの男ではなかった。明りがついていない
のでよく見えないが、女であることはわかる。「あの子はどこ?」相手は笑っ
て「知りたい?」女は私の手首に冷たい金属をあてがった。瞬間、体が跳ねる。

 「そう、だったら私の言うこと、大人しく聞きなさい」かちりと音を立てて
重い手錠が私の両手首をしっかりと抑えつけた。そして、手錠の間にある鎖を
引いて、無理矢理扉の外へ連れ出そうとする。「どういうことです?」手錠が
こすれて痛い。

 「自己紹介が遅れてたんだった」私の前で立ち止まる。後ろ手に拘束されて
いたので、バランスが取れずによろけた。「私、イリー・セリオール。お友達
がどうなってもいいのなら止めないけど。何も言わずについてきた方が身のた
め……ううん、私にはあんな子どうでもいいの」イリーは振り向きもしないで
再び手錠を持つ手に力を入れて、私を引きずっていった。嫌な予感は、当たる
ものだ。

 外へ出ると、朝日がまぶしくて目がくらむ。それでもイリーは容赦せずに私
を建物の中に押し込んだ。「あなた、ここがどこだか知ってる?」どこか挑発
的な喋り方にだんだんとイライラしてくる。だからと言って両腕の自由が利か
ないこの状態では不利もいいところだ。私は彼女の問いかけに、首を横に振った。

 「まあ、知らなくて当然でしょ。それに、あなたのお友達なら私もどこへ行
ったか知らないの」知らないって?「待って、いや……約束が違います」怒気
のこもる声だということは自覚していた。「私は私の仕事をするだけ」イリー
はまた、鼻で笑ってみせる。すっと通る鼻筋は美人に入る部類だ。性格さえよ
ければさぞ男どもに人気があることだろう。濃いブロンドの髪が、すぐ後ろに
立つ私の頬をかすめ、灰色の瞳が面白そうに私を貫く。

 ただ、すでに彼女の顔を見るのも嫌になっていた。それで顔をそらし、今度
は建物に目を向ける。そしてようやく私はこの場所がどこか気づいた。エニア
との待ち合わせ場所だ。とすると、この地下はあの牢だ。床が抜けて、あの後
一体どうなったのだろう?ラギのことも心配だ。

 「何よそ見してるの」少しイラついた声が横から響いた。「私が特別に面倒
見てあげる、だから感謝しなさい」そう言って、イリーが開いたのは私が入っ
たのとは別の扉だ。東棟の中央に巨大な柱があり、そこに入るように扉がある。
私が入った扉とちょうど真反対にその扉があった。最初に来た時、そこに扉が
あったことには全く気付いていなかったのだ。

 イリーが扉に手を触れる間もなく、ゆるゆるとそれは開いた。相変わらず、
石造りの東棟には不釣り合いな設備だ。「何をするつもりですか」心なしか
不安で声が震えている。エニアがここにいるかもしれない。生きていてほし
い。私がここにいると、伝えたい。「そんなの、私の口から言わせたい?」
彼女の嘲笑の目を私はじっと見返してやった。「大丈夫、心配しなくても御
想像通りにしてあげる」彼女の言葉に、全身の毛が逆立つのを感じた。

 中に入って見ると、エニアとの待ち合わせに使ったときの階段とまるで雰囲
気が違うことに気づく。階段は、石畳などではなく銀色の金属パネルが敷かれ
東棟の外観などどこにも感じさせない。それに、電気もついているし空調も効
いている。

 本当に、ここはあのときの東棟と同じ場所なのだろうか。 
時の残滓 第25話
 冷え切った客室の一つに私は寝かされていた。どこを移動中なのかさえ、見当がつ
かない。窓のないこの部屋は、ベッドが一つに小さなテーブル一つの空間しかない。
にもかかわらず、閉塞感とは真逆の感覚が私の肌を通じて伝わってくる。高所から落
下しているのと似たような感覚だ。ベッドの上で身体をこわばらせても、まるで熱が
伝わらない。

 「アイリス……だったか」空気の抜ける音で鉄扉が開く。ゼプトは、躊躇すること
なくそばにあった小さな三脚椅子に腰をかけた。「その名前、どこから?」アイリス
という呼び名は私からは公表していない。だとしたら誰かが広げているはずだ。「そ
うか。知らないのか」ゼプトは妙に納得した答えを返した。一体どういうつもりだ?

 「あなたに私の呼び名を教えたつもりはありません。だとしたら誰かが触れまわっ
ていると考えるのが自然でしょう?」座るところが他にないので、ベッドから起きて
そのまま脚の上に体を乗せる。「君がよく知ってる人間、と答えるのが妥当かな」ど
うも彼は読めない。そして答える気がないと踏んで、私はそれ以上追及しなかった。
後になってわかったが、彼なりの親切だったと今なら言えるだろう。真実なんてもの
は、往々にして知らなければよかったということがよくあるのだ。

 ただし、仮に知らなかったとしてもこの先に影響があったかどうか。それは私にも
わからない。「それで、何の御用ですか?」顔はゼプトに向いていたが視線は外した。
この暗がりではわかるまい。「ああ、言い忘れていたんでね。4時間後には到着する。
トイレは出て左つきあたりだ」それだけを言うためにわざわざ腰をかけたというのは
いささか腑に落ちないが、ゼプトはあっさり部屋を出て行った。

 ラギの居場所は、教えてはもらえなかった。エニアとも連絡手段はない。確かに通
路とトイレだけは行けるようになっていたが、それ以外の道は完全に封鎖され私の力
ではどうしようもない。ついででよければ、私は寝間着のままだったし荷物も持って
いるものは没収され、またしても丸腰だった。

 ベッドは収納式で、下部には水分とペンライト、あとは緊急脱出用の小さな鉄扉が
あるだけだ。脱出用の扉は手動で開けられるようになっていたが、開けてみても何も
視界に引っかからなかった。代わりにエンジン音が余計に大きく唸る。そこでペンラ
イトを持ち出して照らしてみると、扉のすぐ下に梯子になる取っ手が連なっていた。
ここからなら出られそうだ。だが、その梯子がどこに続いているのかはわからないの
は問題だった。

 空を飛んでいる状態でここから出るのは得策ではない。そんなことはわかっている。
それに、脱出用の小型船が鍵も固定具もなく放置されているとも考えにくい。結局、
脱出するのは無理だという結論は覆らなかった。

 無為な時間は刻々と過ぎていく。余暇もなければ明りさえ心許ない。やることと言
えば寝るか考えるかだけだ。残念ながらここ数日の疲れもあり、再び眠りの海へ私は
沈んでいった。これから何が起こるのか、予想なんてできない。ゼプトが何を考えて
いるか。ラギはどこにいるのか。エニアはどうしているのか。

 それでも、すぐに目が覚めてしまってそれから眠れなくなってしまった。考えるこ
とはたくさんあったし、考えなければいけないことでもあったはずなのに、考えれば
考えるほど頭は混乱するばかりだ。ことの元凶がどこにあって、私はどうしてあんな
事件を引き起こして、捕まって、ここにいるのか。

 夢の中の少女は答えてくれない。ゼプトも何も教えてはくれない。ラギも何か知っ
ている気がする。エニアは……信じている。信じていたい。信じたい。それなのに考
えるたびに信じられなくなっていく。

 私はそんな風に考える自分が怖くなった。エニアを信じられない?私が?疑念ばか
りが私を支配するようになってくる頃には、私は考えることをやめていた。どうして
も考えたくない。エニアが何か知っていたとしても、エニアは私と5年もの間ずっと一
緒に寝起きしてきた。彼女を信じなくなったら、私はもう誰も信用できないような気
がする。

 鉄板の壁が私を監視している。まるで私が裏切り者になった気分だ。私が裏切った
としたら、それはエニアに対してだろう。私はエニアから呼び名を貰った。それなの
に私はあれからすぐにあんな事件を起こし、捕まったのだ。

 気が滅入るような時間が、私を押しつぶしながら通り過ぎていく。思考停止から、
どれほど時間が経ったのかもわからない。いつのまにか、あの嫌なエンジン音は止ま
っていた。
時の残滓 第24話
私は沈んでいく。上も下もわからない。息苦しく、暗くて寒い。遠くから静かに
水が打ちつける音がした。ひんやりとした誰かの手のひらが私の肩に乗っかる。
うなじに吐息がかかった。まだ闇に慣れていないのでよくは見えないが、私より
は小さな手だ。いつのまにか、息苦しさはなくなっていたものの、それでもどこ
か浮遊感は残る。

「助けに行くの?」ああ、まただ。「……一体、誰なんだ?」質問に質問で返し
た私に、声の主は溜息をついて肩から手を下した。そして背後から再び腕を回し、
今度は首にすがりつく。「もう、気づいているでしょう?知っているのでしょう?」
あの頭痛、そして吐き気は感じなかった。振りかえってみる。少女の顔は、やは
り見えない。

「助けに行くのね」耳元でささやくように少女は言った。私はそれに頷いて、
再び前に向いた。「エニアは私の、私を……」なぜエニアを助けに行くか、私に
答えがあるとしても、どれも嘘のように聞こえてしまう。

「もう、知ってるんだろう?」答えを言い切る前に、そう重ねた。少女は答えず、
吐息だけが私の肌を掠める。「でも、私は知らない。一体おまえは何者なんだ」
それには小さく笑い声をあげた。

「何がおかしい?」少し癪に障った。「あなたが知りたいのは、わたしの名前?
それともひととなり?」笑いながら、少女は背中から離れた。「じゃあ、名前」
本当はどちらでもよかった。だが、少女はそれに対して黙り込んだ。

「なんだ?答えられないのか?」無言の間が居心地悪い。「じゃあ、あなたの
名前は?」逆に聞き返された。「私は……」またか。またなのか。私の名前は
エニアがつけたあの名前だけだ。上からつけられた名前はただの記号だ。あれ
から結局、私の名前は階級で呼ぶことになっただけで、名前にはならなかった。

「あなたとわたしは、同じ理由」それが、少女の答えだった。「どういうことだ?」
少女に対して、疑問ならたくさんある。ただ、それを訊ねる時間はあまりない
ような気がした。

「どういうことか、知りたいでしょう?だから、あなたはあの子を助けに行っ
て、そして知ればいいの」だんだんと少女の声にノイズが混じる。彼女が話す
たびに、ザアザアと嫌な音が。

「今知っていいのは、わたしのことじゃない。わたしのことを知ろうとするの
はいけないこと。あなたがわたしを知ってしまえば、きっとあなたは壊れてし
まう。そうなってしまえば、あなたはあの子を助けられない」それで、昨日の
夜の夢を思い出した。

あの夢で、私は何を得ただろう?言い知れない恐怖に震える体。そして痛み。
「私はそれでも、知らなければいけないと思う」そう思う根拠は何もない。
ただの意地だ。

「どちらにせよ、わたしにはできない。あなたの望み通りに、なんでもすると
言った。でもね、どうしてもできない。あなたが気づくまではわたしからは何
もできない。どうしたらあなたが知ることができるのかは、そうなってみれば
きっと……」

何もできないというのなら、私は一体何を知ればいいというのだ。私が一番知
りたいのは、この少女だ。私と同じ理由で名前がない少女だ。「なら、私は何
を知るべきだというんだ」自分の握りこぶしが、手のひらに食い込んでいくの
を感じた。

「きっと……」そして、少女の声はふつりと消えた。もう、耳に届くのはノイ
ズだけだ。再び、息苦しさが戻ってきていた。浮遊感は消えて、湿ったシーツ
に横たわる自分の姿が、銀色の天井にうっすらと映し出されている。

外はすっかり暗くなり、幾多の星が頭上を飾る。汗で濡れた白い寝間着は、べ
ったりと私の体に張り付いていて冷たい。 四方を特殊な鉄板に囲われたこの部
屋で、私はそうして目覚めるのだった。
時の残滓 第23話
「どういうことだ……」私の声が遠い。二人して棒立ちになっていた。ラギは
無言のまま燃え盛る街を睨み、きつく唇を結んでいる。体は動かない。目の前
の大惨事は私たちを止まった時間に吸いつけた。

「アイリス、早く逃げよう……」絞り出すような声が隣から漏れ、ラギが私の
腕を引いた。「逃げる?一体何を言っているんだ?」ラギの手を乱暴に振りほ
どく。「説明してる暇ないんだから、言うこと聞け!!」問答無用、とばかり
にもう一度私の手首を掴む。街に背を向けて走り出そうとした矢先に、ラギは
急に足を止めた。

「さあ、逃げる準備はできたかい?」見覚えのある男が、私たちの前に立ちは
だかっていた。「ゼプトだ」男はうすら笑いを浮かべて右手を差し出したが、
ラギも私もその手をじっと見ているだけで握手には応じない。「あんたは人の
名前を覚えようとしないんだったねぇ。覚えてるかい?俺があのとき言ったこ
と」すっと眉を上げてみせると、男は差し出していた右手を下ろして代わりに
両腕を組んだ。

覚えている。男と会ったのは、私が下の世界へ来ることになったきっかけの事
件、その前日だ。何故、ここにこんなやつがいるのか。見当もつかない。私は
男の問いに何も答えなかった。「覚えてる顔だねぇ?そうやって顔に出してる
といつか死ぬぜ?前にも言ったようにな。まあ、あんたはここがどういう場
所なのかすら知らないようだから何言っても無駄だろうが」やはり、この男は
苦手だ。

「それで、どういうことなんですか。説明してください」語気を強めないよう
に気をつける。「説明してる暇はないって、さっきの女の子から聞いただろ
う?」私に目も合わせようとしないで、男は鼻で笑った。ラギは黙ってそれを
見ている。

「上に行く。そこの女の子、あんたも一緒に来な。じゃないと面倒なことになる。
いや、あんたは知ってるんだろ?」頷いて答えるラギに、私は逃げ出したくなっ
た。ここには、誰も味方はいない。ゼプトが言っているのは、私があの拘置施設
から出てきた理由を問うためだ。仮にそうでなくとも私が安易に上に戻るのは明
らかに問題がある。

叫ぶ声も、抵抗する気力も、全て失った。私は暗闇のどん底に突き落とされて、
もはやどうすることもできないでいた。ラギを少しでも信用したことは、私の重
大なミスだったのだろうか。

それに、火をつけられたあの街はどうなる?優しくしてくれた店主。賑やかだった
商店街。古風な街並みに現代風の設備を施した変わった風景。どうしてこうなった
んだろうか。一体誰が火を放ったのか。

「おい、さっさと来い」思考に浸る間もなく、私は無理矢理連れて行かれた。ゼプ
トは商店街を最初から存在しないかのように一切見ようとしない。事実というのは
認識の範囲から外に溢れてしまえば、ある人には真実でも、ある人には嘘になる。

私たちは追われるように街を離れ、炎の街はやがて一点となり、そして見えなくな
った。追い立てられるようにゼプトの船―― 一般的な船というには語弊があるが
少なくとも外から見た分には船としか言いようがない――に乗り込む。

なんとなく血と錆びの臭いがした。低く唸るエンジン音。風を切る音は甲高く、私
の何かをかき乱す。昼間の暑い時間帯にもかかわらず、震える体は止まらない。ど
こか遠くへ、このまま帰ってこなければいい。このまま消えてしまえばいい。

あの拘置室で考えていたことが、今更蘇ってくる。

ただし、それはもう私一人の問題ではない。ラギは、エニアは、私を裏切っている
のだろうか。それとも、何も知らないのだろうか。何も知らないのだとしたら、私
のせいで二人は巻き込まれていることになる。

これ以上、罪を重ねたくはない。せめて、あの二人がどこまで知っていて、どこま
でこの事件と関わっているのかをこの目で見る必要があるだろう。そのためには、
ここで死ぬわけにはいかない。

それでも、ここの居心地は変わらない。ラギは今、別室で待機中だ。ゼプトは私た
ちの同室を許さなかった。それが余計に不安を煽る。耳に届く不愉快な振動音が、
いつの間にか私の意識を眠りの淵へと追いやった。
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